史跡池上曽根遺跡について

更新日:2023年08月01日

場      所  大阪府泉大津市曽根町、和泉市池上町ほか
史跡指定  1976年4月26日(1978年11月15日、1993年2月5日追加指定)
指定面積  115,000平方メートル
公園面積    35,000平方メートル(第1期整備範囲)
復元建物  
    大型掘立柱建物、大型くり抜き井戸、竪穴住居、小型掘立柱建物、 遺構復元(環濠、竪穴住居、祭祀遺構ほか)

 

池上曽根遺跡上空

池上曽根遺跡とは

池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃の環濠集落です。広さは約60万平方メートルで、環濠の内側に、掘立柱建物群があり、中央には大型の掘立柱建物があります。花粉などの自然遺物の分析により、アカガシなどの広葉樹の森や、アシ、ススキなどの湿地草原が遺跡周辺に広がっていといたと思われます。

後方には大阪湾がみえます。二千年前の大阪湾は、池上曽根遺跡のわずか2キロメートル後方にまで迫っていました。 遺跡の東側を横切って走る大きな道路が、第二阪和国道(現26号線)です。弥生時代にはその道路の手前と、遺跡の奥に河川がありました。

手前の河川では堰が発見され、遺跡の北側には水田が拡がっていたと考えられます。ただし、池上曽根遺跡が最も栄えた「弥生時代中期後半」には河川の流れは止まっていたようです。この二本の河川にはさまれ、二条の環濠が、集落をとりまいています。その外側には方形周溝墓(弥生時代のお墓)があったようです。池上曽根遺跡では、お墓は集落の外側に造る習慣があったのかもしれません。

また、環濠のまわりには竪穴住居が密集していました。竪穴住居には、一時期に「何棟存在」し、「何人の人」がいたのか人口をめぐる解釈は様々です。

池上曽根遺跡は平野部に位置していますが、二千年前には河川などの影響もあり、今よりもっと起伏に富んだ地形をしていました。
信太山丘陵からも2キロメートルと近く、海と川と山に挟まれた豊かな土地であったようです。

遺跡MAP
池上曽根遺跡分布
遺跡現場写真2

池上曽根遺跡も、弥生時代後期になると衰退します。再び池上曽根遺跡が姿を現すようになるのは明治時代末期でした。 きっかけとなったのが後に「池上曽根遺跡の父」と呼ばれる南繁則氏です。明治時代末期、当時中学生の南氏が自宅の土塀に挟まった石器を発見したことがきっかけでした。南氏は、大人になってからも遺物の採集を続け、考古学者を池上に招いたりしていました。しかし、発掘が行われることはなく、具体的な遺跡の内容はわからないままでした。

 1950年代になり池上曽根遺跡は次第に姿を現すようになりました。泉大津高校地歴部と森浩一氏が遺物の分布範囲からその遺跡の大きさと重要性について言及し、1961年には発掘によって遺跡の南北が確認され、遺跡の北端では巨大な溝と竪穴住居33棟を発見しました。

発掘現場

1964年、第二阪和国道の建設予定地が池上曽根遺跡を南北に貫通するということが発表され、南繁則氏らが中心となり遺跡の保存運動が始まりました。これらを受け大阪府教育委員会は遺跡範囲確認調査を実施。 その結果、遺跡は南北約1000メートル、東西500メートルという広大な面積ということが判明します。遺跡範囲が広大なため、遺跡を保存することも、迂回することもできず、予定どおりの路線で道路は作られることになり、建設に先立ち1969年から発掘調査が行われました。

調査の結果、池上曽根遺跡は

  • 弥生時代を通して営まれた集落
  • 遺跡の範囲もさらに広がる
  • 遺物が莫大な量
  • 地下水位が高いため一般的には残りにくい木製品や植物遺存体などが数多く残存

という内容が明らかとなり、1976年に遺跡中心部が国史跡に指定され、国道以外の部分は、保護されることになりました。

1969年から2年半にもわたる調査が、池上曽根遺跡のみならず発掘調査方法も変えました。従来の発掘調査では、「発掘」がすべて終了した後に「遺物整理」を行うことが一般的でしたが、金関恕氏の提案により「発掘と遺物整理」を同時に進める方法がとられるようになりました。これにより池上曽根遺跡の調査は、迅速かつ精密に行うことができるようになりました。今では一般的なことですが、遺跡の表土剥ぎにブルドーザーなど機械を用いたのも、この発掘調査からです。

その後、遺跡を東西に横切る松ノ浜曽根線の調査が行われ、北側の環濠が細く多重であることが確認され、墓域が北側にも存在することが明らかとなりました。そのほか、大阪府、和泉市、泉大津市それぞれにより史跡周辺で発掘調査が行われ、遺跡の外枠は分かるようになってきました。しかし集落の内部は不明なままでした。

「池上曽根遺跡」について、その巨大さと重要性を指摘したのが、森浩一氏ですが、集落像を初めて具体的に論じたのが石神怡氏です。石神氏は第二阪和国道の調査成果に基づき、歴史的な集落発展過程を考察されました。また、都出比呂志氏は環濠集落について「地域の中心としての役割を持つものであり、首長も一般成員も同じように暮らすことが特質である」としました。池上曽根遺跡や唐古鍵遺跡などの畿内の大環濠集落は、「他の一般集落と異なった特殊な機能を持ち、都市的なきざしがみられる」と述べ、内部の構造は複雑に分割されることを予想されています。

1990年に史跡整備委員会が発足され、環濠の正確な位置確認のため、南端部の発掘調査が開始されました。1995年には文化庁の「古代ロマン再生事業」に採択され、内部の調査を実施することになりました。調査をすすめると

  1. 集落のほぼ中央部に巨大な建物が存在する
  2. 大型建物の近くに巨大な井戸が存在する
  3. 建物や井戸の周辺には石器や土器、たこつぼの埋納があり、火を使った痕跡が認められる
  4. 建物が規則的な方形区画上に配置されている
  5. 竪穴住居跡の著しい建てかえがある

といったことが明らかになり、池上曽根遺跡を都市として評価してはどうかという意見がだされました。この意見は「弥生都市論」として、数々のシンポジウムや書籍で論議されました。

弥生都市論では、

  • 政治的かつ宗教的な中枢施設をもつとされる(上記1・2)
  • 生産に関する祭祀が行われていたとされる(上記3)
  • 専門工人が存在し物流の中心機能を有していたとされる
  • 人口の集中および居住域の規制、ひいては集落構造の計画性がある(上記5)

といった遺構などから帰納的に導き出された解釈から「池上曽根遺跡は弥生都市である」という論と、「都市というのはこうである」と定義し、「それに当てはまらないから都市ではない」という演繹的方法で論を進めるという見解の中で、食い違いがおこっています。弥生都市論とは、「後の時代にはみられず、首長とそれぞれの職能民とが居住し、環濠を枠とする、弥生時代中期に完成したひとつの集落形態である」であるとされています。

発掘現場2
タコツボ
年輪年代測定に使用された柱

1996年4月27日、各新聞の一面に大型掘立柱建物から出土した柱のうちの1本が紀元前52年に伐採されたという記事が掲載されました。なぜ新聞の一面を飾るほどのことなのかと思われた人もいるかもしれません。それは、今までの歴史を変える可能性が出てきたからです。それまでの考古学では、土器の移り変わりによって年代を決めてきました。(土器編年による相対年代)漢が倭の奴国王に金印を授けたという「紀元後1世紀半ば頃」が、「弥生時代の中期後半」にあたり、池上曽根遺跡が最も栄えたのも、大型掘建柱建物の柱穴から出土した土器のため、その頃であろうと考えられてきたのです。しかし、出土した柱のうちの1本が、「年輪年代法」の測定により、「紀元前52年」に伐採されたことが判明しました。伐採してすぐ使用されたと考えると、この建物は紀元前50年前後に建てられたことになり、これまでの考えから約100年もさかのぼることになります。

暦年標準パターン作成模式図

「年輪年代法」は、奈良文化財研究所の光谷拓実氏が、20年以上かけて研究してきたものです。木の年輪は毎年の気侯状況で幅が変化します。その年輪幅を現代の木から測ってゆき、中世・古代では木造建築物、または遺跡から出土する柱などの幅を読み取った上で、その年輪の平均のパターンを作成します。それらは「暦年標準パターン」とよばれ、何百回となく測定を行った結果、ヒノキが紀元前912年、スギが紀元前1313年まで測れるものさしができあがりました。年輪年代法により、他の遺跡においても池上曽根遺跡の結果を追認するような結果が出始めています。

池上曽根史跡公園 復元された弥生の建物群

1999年に復元された大型掘立柱建物とくり抜き井戸に続き、2000年までに合計7棟の建物、2001年までに各種の遺構の復元。2001年春に、開園。

高殿と井戸

いずみの高殿

1995年に発見され、発見以来、2年の検討と2年の復元工事を経て、1999年3月、復元されました。復元案は、考古学、建築史、民族学などからの考察と、土器に描かれた建物絵画を参考につくれられました。屋根回りに取り付けられたあおり板や破風板には、弥生時代の土器などにかかれた文様が刻まれ、腰板には連作絵画によって池上曽根物語がつづられています。

「大型掘立柱建物」(いずみの高殿)        「くり抜き井戸」(やよいの大井戸)

   ・床面積133平方メートル(約80畳)        ・直径2.3メートル

   ・床高4メートル 深さ2メートル

   ・独立棟持柱9メートル

   ・全高11メートル

   ・屋根面積400平方メートル

竪穴住居

竪穴住居

竪穴住居とは、当時一般の人々が暮らしていた住居です。地面に大きな穴を掘り、そこに屋根をかけた形の建物で、数万年前に考案され、近畿地方では古墳時代後期の1500年前まで、東北地方などでは鎌倉時代まで使われていました。長い間、住居の主流となっていました。

池上曽根遺跡でも、1992年の発掘調査以来、おびただしい数の竪穴住居が環濠の周辺で見つかりました。池上曽根が最も栄えた紀元前1世紀、竪穴住居も何度目かの円から四角に移り変わる時期を迎えていました。

史跡公園では、発掘された資料を元に丸い竪穴住居と四角い竪穴住居を復元しています。丸い竪穴住居は直径6メートル程の大きな穴の上に4本の柱で支える屋根をかけた姿で、四角い竪穴住居は一辺2.5メートル程の四角い穴を掘り、周囲に壁を立ち上げた新しい形の竪穴住居になっています。最も労力のかかる穴を掘る作業を省略した結果、このような形になったのでしょう。

小型掘立柱建物

小型掘立柱建物(切妻屋根)

大型掘立柱建物の周囲には、当時のハイテク産業であった金属器の製作工房が広がっていました。一般の住居は集落の外側に集中していましたが、池上曽根遺跡の発展の一翼を担ったと考えられる金属器製作は、祭祀空間の周辺に配置されていました。そこには住居が一切存在せず、火を使う施設と作業小屋である掘立柱建物群がありました。弥生時代に描かれた建物の絵は、全国で50例余り見つかっています。

寄棟屋根の掘立柱建物

絵画土器には屋根の両端を切り落としたような切妻屋根と、台形になった寄棟屋根の両方がほぼ等しい比率で描かれています。弥生時代に両方の屋根の形が存在したことがわかります。史跡公園においても、切妻屋根と寄棟屋根の建物を復元しています。屋根の形は違いますが、使われ方は、吹き抜けの建物と類似していたと想定しています。ただ、作業工程上風を嫌う作業もあったでしょう、寄棟建物には三方に草壁を取り付けています。この壁はパネル式になっていて、取り外しができます。屋根裏には簡単な床をしつらえ、小部屋を作り、道具などが置けるようになっています。

池上曽根遺跡の調査歴

1967年(昭和42)  第二阪和国道建設に伴い、大阪府教育委員会が範囲確認調査
1969年(昭和44)  第二阪和国道内の調査開始(~1971、遺跡の南北で集落を囲む大溝、竪穴住居、方形周溝墓などとともに弥生土器出土)
1976年(昭和51)  中心部の約11万4千平方メートルが国の史跡に指定される
1978年(昭和53)  大阪府教育委員会による第二阪和国道内の発掘調査(~1979)
1990年(平成 2)  史跡池上曽根遺跡整備委員会による発掘調査が始まる
1993年(平成 5)  集落を取り囲む大溝の一部を確認
1995年(平成 7)  大型掘立柱建物・大型くり抜き井戸を発見。年輪年代法により大型建物の一部の柱の伐採年がB.C.52であることが判明
1999年(平成11)  大型掘立柱建物、大型くり抜き井戸を復元 2001年(平成13) 5月、池上曽根史跡公園開園

地図情報

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電話番号:0725-33-1131(代表) ファクス:0725-33-0670
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