泉大津ふるさと文化遺産 三丁杼変換装置付木製手織機について

更新日:2023年11月21日

泉大津市の毛布の歴史は、明治時代にはじまります。江戸時代におこなっていた木綿織が下地となりつつ、毛布に特化した技術の革新が行われていきます。 技術革新の大きな画期は、明治20年代前半にジャカード装置が導入されたことです。これ以降、デザイン性のある織毛布がつくられるようになりました。 明治38(1905)年には、市内に75の毛布工場と、多くの毛布関連工場が操業し、まさしく泉大津全体で、毛布の製造がおこなわれていました。 本市には、この頃に毛布を製織(せいしょく)していた毛布用の木製織機が現存しています。

三丁杼変換装置付木製手織機
織機部分

三丁杼変換装置付木製手織機の概要

大正時代から昭和時代初め頃(1910 ~ 30 年代頃)まで使用されていた毛布用の織機(しょっき)です。幅の広い毛布を製織(せいしょく)するために機台が大きいことが特徴で、泉大津市が毛布のまちとして発展してきたことを示す貴重な文化財です。
織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に組み合わせて作る布地ですが、経緯の組み合わせを変えることで文様を織り出すことができます。本織機の上部には、「ジャカード装置」が取り付けられています。これは紋紙(一定のパターンで穴を開けた厚紙) の穴の有無と経糸を上げ下げする縦針を連動させる装置で、これにより意図した文様を平易に織ることができます。 側面には、「京都今出川通大宮東入 倉田留吉 製造」との焼印が、滑車には「西陣□□□」(一部判読不明) との焼印があり、京都で製造されたものであることがわかります。また、織り手が紐を引くと杼(経糸の間に緯糸を通す道具/ シャトル) を弾き飛ばす「バッタン」という飛杼装置(とびひそうち)がついています。本織機のバッタンには、ジャカード装置と連動して3 丁の杼を自動で変換させる機能があり、最大3 色の緯糸を使い分けることができます。この機能は、大正時代初め頃(1910年代) に深井末吉(旧下条大津地区出身) により考案されました。 深井は織機に関する特許をいくつも取得した人物で、明治40 (1907) 年に「二挺杼交換機」(2 丁の杼箱を連係的に動かすことで、2 色の緯糸を使い分ける装置)、明治43 (1910) 年に「横縞織機」、大正2 (1913) 年に「二/四丁杼替装置」、大正8 (1919) 年に「深井式綜絖」など次々と実用新案登録しました。他にも大正の初め頃に深井が考案した「一丁杼変換装置(ジャカードなし)」及び「両二丁杼変換装置(ジャカード装置有り)」の略図が残されています。「三丁杼変換装置」付の本機は、後者略図とよく類似しており、後者がさらに改良されたものであると考えられます。
このような木製手織織機により、多くの毛布が製織されましたが、技術の進歩とともにに木製から鉄製へ、また手動から電動への転換が進み、木製手織機は次第に工場から姿を消していきました。
本織機は、現存する唯一の毛布用木製手織機です。 本織機は「泉大津ふるさと文化遺産」に認定されています
織機の部分名称と役割
ジャカード部分の焼き印
織機の部分

三丁杼変換装置付木製手織機が動く様子は下記リンクからご覧ください

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〒595-0025 大阪府泉大津市旭町22-45 テクスピア大阪1階
織編館
電話番号:0725-31-4455 ファクス:0725-31-4457
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