「穴師村」(あなしむら)

更新日:2023年08月01日

明治22年~昭和6年の行政名。

 

明治22年、板原、我孫子、穴田、池浦、虫取、豊中、宮の6か村が合併し「穴師村」と改称する。昭和6年、大津町、上条村と合併、「大津町」となる。

穴師村は、平安期~鎌倉期にみえ、「直師村」とも書かれた。平安初期の成立とされる「日本霊異記」天平勝宝4(754)年の頃に「和泉国和泉郷下痛脚(しもあなし)村」と記され、常に卵を煮て食べる男が悪報を受ける説話に、足を焼かれ「足痛し」といったことから「痛脚」(あなし)と読み、穴師の地名由来と記している。

また、地内には、和泉五社の第二社である延喜式内社「泉穴師神社」がある。白鳳元年(672年)の創建とされ、聖武、孝謙、村上、崇徳等の歴代天皇の崇敬厚く、祭神は「天忍穂耳命」「栲幡千々姫命」で、特に栲幡千々姫命は織物の神であるため、織物の町泉大津での信仰が篤い。天正13年秀吉根来攻めの際兵火にあい、慶長7年(1602年)片桐且元を奉行に豊臣秀頼より本殿等大改修を受ける。本殿前石灯籠は楠木正成が元弘元(1331)年挙兵の際、国家安寧武運長久を祈願し奉献したものといわれる。

明治41年加茂神社・春日神社・厳島神社・福神社・事平(豊中)、菅原神社(板原)、八坂神社(虫取)、翌42年には、菅原神社(辻)が合祀された。

「穴師村」の名は、平安期の地名の復活もあるが、この泉穴師神社の影響のほうが多いと思われる。  

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